女性ヴォーカル(3)―カーメン・マクレエ、アニタ・オデイ
今回は女性ジャズ・ヴォーカルに戻り、二人をご紹介する。
先に「女性ジャズ・ヴォーカル(2)」において、エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)、サラ・ヴォーン(Sarah Vaughan)、ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)を、「三大ジャズ女性ヴォーカル」とご紹介したが、ビリー・ホリデイの代わりにカーメン・マクレエ(Carmen McRae、1922年4月8日-1994年11月10日)を挙げる流儀(?)もある。
これは、決してホリデイの評価が他の二人に比して低いためではなく、むしろその別格的存在感から、敢えて一絡げにするのを遠慮してのことであるが、ともあれその代わりとして名前の上げられるマクレエは、これらのビッグネームと肩を並べるアーティストであることは間違いなく、特にゆったりした調子の曲であるバラード(ballad)の上手さは人後に落ちない。
マクレエはニューヨークのハーレムに生まれ育ったが、10代の頃、当時同じ地区に住んでいた5歳年上のホリデイと友人を通じて知り合い、奇しくも二人の誕生日がそれぞれ4月8日と7日と続いていたため、例年誕生パーティを共催していたという。
そんなマクレエはホリデイを深く敬愛して音楽的にも多大な影響を受けたが、初めピアニストとしての修練を積んだマクレエもまた、ホリデイが新曲を受け取った際、譜面を読むのが得意でなかった彼女のためにそれを演奏や歌唱で具現する形で力を貸したのである。
プロとしての第一歩は、1944年にベニー・カーター(Benny Carter)楽団のピアニストとして踏み出し、続いてカウント・ベイシー(Count Basie)楽団のピアニスト兼シンガーとして歌手活動も始めたが、1946年にドラマーのケニー・クラーク(Kenny Clarke)と結婚(しかし後に離婚)して一線を退いたこともあり、シンガーとしての初録音は1953年になって漸く実現した。
マクレエの歌唱は、一聴しただけでは、いわゆる「ジャズっぽさ」に乏しい印象を受けるが、要所々々に鏤められたエッセンスに気付くことができれば思わずはッとさせられるはずだ。
そのジャズの精髄をマクレエが如何に大切にしていたかは、徒に自己の活動領域を広げることなく斯界に留ったという事実にも現れているのではなかろうか。
続いて取り上げるのは、アニタ・オデイ(Anita O'Day、1919年10月18日-2006年11月23日)。
その歌唱を一度耳にすれば瞭然なように、アニタの特徴はハスキーな声と、独特な歌い方にある。
しかし、これは天の賜物ではない。
子どもの時に受けた扁桃線手術にミスがあり、同じ高さの音を長く引き延ばすロングトーンや、音を揺らすビブラートの発声を断たれた彼女は、敢えて音を短く寸断して歌うスタイルを自らの生命線として生み出し、それがユニークな代名詞となったのである。
これと双璧をなすアニタの魅力は、俗にいう乗りの良さだ。
しかしそれはリズム・セクションの敷いたレールに単純に従うのではなく、時にそこから外れ、聴く者を一瞬冷やりとさせたあと、何事もなかったかの如く正規のポジションへ復帰する類のもので、ジャズ、延いては音楽全般における「間(ま)」の妙味を多分に秘めている。
1933年、シカゴのクラブシンガーとしてキャリアをスタートしたアニタは、間もなくその独特なハスキーボイスによるスウィンギーな歌唱で注目されるようになり、1941年にはジーン・クルーパ(Gene Krupa)楽団、さらに1944年にはスタン・ケントン(Stan Kenton)楽団の専属歌手となり、ヒット作にも恵まれたが、1年を経ずにそこを去る。
次いで1950年代に入ると、名プロデューサー、ノーマン・グランツ(Norman Granz)の協力を得て、クレフ、ノーグラン、ヴァーヴ等のレーベルと契約し、数多のアルバムをリリースした。
特に1956年から64年にかけてのヴァーヴ時代に生み出された作品群は、彼女の傑作として高く評価されている。
その時代の一枚、アニタの最高傑作とも言われる「アニタ・シングズ・ザ・モスト(Anita Sings The Most)」から一曲をお聴き頂いて本稿を終えよう。
・ウィル・ビー・トゥゲザー・アゲイン(We'll Be Together Again)