女性ヴォーカル(4)―アビー・リンカーン、ビリー・ホリデイ
前回に続き女性ジャズ・ヴォーカリスト。
このジャンルについては、本稿の二人をもって一先ず終えようと思う。
アビー・リンカーン(Abbey Lincoln、本名:Anna Marie Wooldridge、1930年8月6日-2010年8月14日)は、音楽を愛好する家庭に生まれ育ったこともあり、幼い時から学校や教会などで歌っていたものの、プロ・デビューは20歳を過ぎてからと比較的遅かった。
当初は、アナ・マリー(Anna Marie)、ギャビー・ウールドリッジ(Gaby Wooldrige)といった名で活動していたが、1956年、ベニー・カーター(Benny Carter)楽団と行った初レコーディングの際、作詞家ボブ・ラッセルの案を受け入れ、エイブラハム・リンカーンに因んでアビー・リンカーンを名乗ることになったのである。
翌1957年、リヴァーサイド・レーベルに移籍し、そこから「ザッツ・ヒム!(That's Him!)」をリリース。
このアルバムには、ケニー・ドーハム(Kenny Dorham, tp)、ソニー・ロリンズ(Sonny Rollins, ts)、ウィントン・ケリー(Wynton Kelly, p)、ポール・チェンバース(Paul Chambers, b)、そして後に伴侶となるマックス・ローチ(Max Roach, ds)が参加し、さらにセロニアス・モンク(Thelonious Monk, p)などとも共演して大きな音楽的成長を遂げる。
また、アビーもカーメン・マクレエなどと同様、ビリー・ホリデイの信奉者の一人で、詩を語るように歌い、より深く感情や情景を表現する技法にその影響を見ることができ、ホリデイの後継者との評価も宜なるかな、である。
高声域で音の割れるような歌声は、初めはやや耳障りに聞こえるかもしれないが、その実力は折り紙付き。
ここでは、上に挙げたアビーの代表作から一曲お聴き頂こう。
最後はやはり、既に何度も名前を挙げたビリー・ホリデイ(Billie Holiday、本名:Eleanora Fagan、1915年4月7日-1959年7月17日)をご紹介しないわけにはいくまい。
ジャズには、他の芸術分野以上に「破滅型」のアーティストが多いが、ホリデイも不幸な境遇の下に生を受けた後、幼少時より荒んだ生活を送り、やがては酒・煙草そして麻薬に溺れ、蝕まれて、わずか44年で生涯を閉じた。
それにもかかわらず、同時代の、さらには後続するアーティストに計り知れぬ影響を与えたという事実が、その音楽的存在感を示していると言えよう。
まだ禁酒法下のニューヨークにおいて、10代の前半からナイトクラブに出演するようになったエレオノーラは、15歳の時に小さな音楽的契約を手にしたが、ビリー・ホリデイという芸名はこの時に採ったものである。
その由来は、昔、男の子のようだったため父親に「ビル」と呼ばれたという幼い時の記憶が頭に浮かび、これに父姓であるホリデイを結びつけたものとされている。
ビリーはクラブ歌手として経験を積むと共に、当時フレッチャー・ヘンダーソン(Fletcher Henderson)楽団で活躍していたレスター・ヤング(Lester Young, ts)、さらにはデューク・エリントン(Duke Elington, p)とも出会い、音楽的力量をさらに培った。
特にレスターとは気が合い、レスターはビリーのことを「レディ・デイ」と呼び、一方、ビリーがレスターを、「サックス奏者の第一人者」という敬意を込めて「プレス、プレジ=プレジデント)と呼んだことは、「ジャズ・テナーサックス(2)」でご紹介した通りである。
そのエリントンと共演した1935年、ビリーは人気の面で絶頂期を迎えるが、音楽的に一層重要なのは、1939年、ルイス・アレンという若い高校教師の手になる、アメリカ南部に根強く残っていた人種差別を赤裸々に描き、指弾する「奇妙な果実(Strange Fruit)」を歌ったことで、これを契機として、1941年の「暗い日曜日(Gloomy Sunday)」のレコーディングなど、人間の情念の、より深い表現の探求へと向かったのである。
お聴き頂くべきは、その「奇妙な果実」――と考えたが、「ジャズ」としてご紹介するのはいくつかの意味で躊躇われて、次の曲に変えた。
しかしながら、ビリーの特質はこのパフォーマンスからも十分窺われると思う。