前回に続き、ジャズ・テナーサックスを取り上げる。
まず初めに、一曲お聴き頂きたい。
・恋のチャンスを(Taking A Chance On Love)
これは、ズート・シムズ(Zoot Sims、本名:John Haley Sims、1925年10月29日-1985年3月23日)のパフォーマンスだが、前記事でご紹介したスタン・ゲッツに通じる雰囲気が感じられないだろうか?
ゲッツはウェスト・コースト・ジャズを代表するアーティストの一人であり、その演奏には、西海岸の特徴であるリラックスした空気と乾いた明るい音色が溢れている。
一方のズートはアメリカ大陸の反対側、イースト・コーストのジャズ・プレイヤーらしく、親しみやすいメロディーとなめらかでしっとりした音感を存分に聴かせてくれるアーティストだ。
しかしながら、この二人は、どちらもテナーサックスの偉大な先達であるレスター・ヤング(Lester Young)の影響を大きく受けており、また、1940年代には、ゲッツとともにウディ・ハーマン(Woody Herman)楽団の代表的プレイヤーとして活躍したという共通点もある。
これらの資質および経験が、その後の演奏においても、枯れることなく底流として常に存在し、これが両者の、似て非なる・非にて似たる情趣として現出するのではなかろうか。
続く1950年代と1960年代、ゲッツはアル・コーン(Al Cohn)と共にクィンテットを率いて印象的なアルバムを発表。
1962年には、ジャズとボサノヴァとを融合したとされる「ニュー・ビート・ボッサ・ノヴァ(New Beat Bossa Nova)」をリリースし、ここにもゲッツとの共通因子を見ることができる。
さて、こう書いてくれば、どうしてもレスター・ヤングをご紹介しない訳にはいくまい。
ゲッツ、シムズから目標とされたレスター・ヤング(Lester Willis Young、1909年8月27日-1959年3月15日)だが、このヤングにもやはり、啓示を受けた先輩がいる。
もっとも、それは同じサックス奏者ではなく、バンド・リーダーとしても卓越した力量を具えたピアニスト、カウント・ベイシー(Count Basie)だ。
1932年に参加した、オリジナル・ブルー・デヴィルズというバンドで、ヤングはベイシーに出会い、翌年にはベイシーの組織した楽団へ移籍。
続いて1934年には、フレッチャー・ヘンダーソン(Fletcher Henderson)に認められてそのバンドに参加したが、当時絶対的な人気を誇っていた前任のサックス奏者、コールマン・ホーキンス(Coleman Hawkins)と比較・批判され、そこから去ることを余儀なくされた。
しかし、カウント・ベイシーがカンザス・シティーで積極的な活動を展開していることを知ったレスターは彼を訪ね、再びそのバンドで自らの信ずるジャズを追求したのである。
豪放な奏法から硬質な音を迸らせるホーキンスとは対照的に、ヤングのプレイは漂うようなフレージングによる柔らかな音色を特徴とする。
やがて、そのホーキンスと、同一楽器の演奏でどちらが優れているかを競う「カッティング・コンテスト」で直接対決したヤングは、以前の屈辱を晴らした――
と、何かホーキンスが悪役の如き書き方になってしまったが、ホーキンスもまた、ヤングとは別の音楽性を具えた偉大なアーティストの一人であり、後日ご紹介するつもりである。
なお、ヤングの愛称であるプレス(Pres)は、伝説的女性ジャズ・ヴォーカリスト、ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)による命名で、テナーサックス奏者のプレジデント(President、代表者・第一人者)に因んでいる。