ピアノ(2)―ウィントン・ケリー、バド・パウエル
ジャズ・ピアノの2回目、今回は二人のピアニストをご紹介する。
ウィントン・ケリー(Wynton Kelly、1931年12月2日-1971年4月12日)もまた、多くのジャズ・ミュージシャンの例に漏れず、10代からプロとしての活躍を開始し、20歳の時にはトリオによるファースト・アルバムをリリースした。
その一方、オール・ラウンダーとしての素質も豊かで、その特質を遺憾なく発揮し様々なアーティストとのセッションも多数残している。
特に、先に取り上げたレッド・ガーランド(Red Garland)の後を受けての、マイルス・デイヴィス・クインテット(Miles Davis Quintet)への参加は、ケリー自身の一層の発展を促すと同時に、マイルスの音楽に新たな局面を開いたと言ってよいだろう。
単にジャズにとどまらず、広く全音楽界における至宝とされる名盤「カインド・オブ・ブルー(Kind Of Blue)」中の一曲、「フレディ・フリーローダー(Freddie Freeloader)」で、ビル・エヴァンス(Bill Evans)の代わりにケリーを指名したマイルスは、彼を「ガーランドとエヴァンスのハイブリッド・ピアニスト」と称した。
ポール・チェンバース(Paul Chambers, b)、ジミー・コブ(Jimmy Cobb, ds)とともにマイルスのもとを去り、トリオとしての新たな一歩を踏み出し、後にギタリストのウェス・モンゴメリー(Wes Montgomery)を加えて印象的な演奏を展開したケリーだが、1971年4月12日、不惑を迎えることなくこの世を去った。
・飾りのついた四輪馬車(Surrey With The Fringe On Top)
もう一人は、「悲運の天才ピアニスト」バド・パウエル(Bud Powell[Earl Rudolph Powell]、1924年9月27日-1966年7月31日)。
祖父、父、兄弟がミュージシャンという音楽一家に生まれた彼もまた、幼い時から優れた才能を現し、17歳の時には、ニューヨークのミントンズ・プレイハウスにおいて、セロニアス・モンク(Thelonious Monk, p)を中心とし、閉店後、毎晩のように行われたジャム・セッションに参加し、いわゆる「モンクのハウスセミナー」の常連となる。
ここで音楽の理論と実践の両面を深めたバドは、左手で律動と和音を表現し、右手でメロディーを奏でる従来のスィング・スタイルから、リズム・ハーモニーを担う主役をそれぞれドラムス・ベースに任せて左手の負荷を減らし、インスピレーション赴くままの複雑なアドリブに専心する奏法を確立。
これにより現代ピアノ・トリオの礎石を据えるとともに、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie, tp)などのコンボに参加しながら、ビバップのピアニストとして急速に大輪の花を開いた。
しかし、この順調な船出は長くは続かず、1945年1月、警官に頭を殴られたことが原因で酷い頭痛に悩まされるようになり、それを緩和するためもあったのか、50年代中期以降は麻薬及びアルコール中毒に陥って精神に障害を来たす。
さらにその治療として受けた電気ショック療法でも後遺症が残ったといわれ、1966年、41歳で他界した。
この履歴からも理解される通り、彼の真価は初期のアルバムに顕著に見られるが、ここでは敢えて苦悩の時期に録られた有名なパフォーマンス挙げておく。