ジャズ on the net|JAZZの名曲・名演を動画で試聴

Jazzの歴史から代表的アーティスト、名演奏、スタンダードナンバー、おすすめの名盤まで―YouTubeの動画を視聴しながら、ジャズを愉しむためのツボをご紹介します。

女性ヴォーカル(4)―アビー・リンカーン、ビリー・ホリデイ

前回に続き女性ジャズ・ヴォーカリスト。

 

このジャンルについては、本稿の二人をもって一先ず終えようと思う。

 


アビー・リンカーン(Abbey Lincoln、本名:Anna Marie Wooldridge、1930年8月6日-2010年8月14日)は、音楽を愛好する家庭に生まれ育ったこともあり、幼い時から学校や教会などで歌っていたものの、プロ・デビューは20歳を過ぎてからと比較的遅かった。

 

Abbey Lincoln

 

当初は、アナ・マリー(Anna Marie)、ギャビー・ウールドリッジ(Gaby Wooldrige)といった名で活動していたが、1956年、ベニー・カーター(Benny Carter)楽団と行った初レコーディングの際、作詞家ボブ・ラッセルの案を受け入れ、エイブラハム・リンカーンに因んでアビー・リンカーンを名乗ることになったのである。

 

翌1957年、リヴァーサイド・レーベルに移籍し、そこから「ザッツ・ヒム!(That's Him!)」をリリース。

 

このアルバムには、ケニー・ドーハム(Kenny Dorham, tp)、ソニー・ロリンズ(Sonny Rollins, ts)、ウィントン・ケリー(Wynton Kelly, p)、ポール・チェンバース(Paul Chambers, b)、そして後に伴侶となるマックス・ローチ(Max Roach, ds)が参加し、さらにセロニアス・モンク(Thelonious Monk, p)などとも共演して大きな音楽的成長を遂げる。

 

また、アビーもカーメン・マクレエなどと同様、ビリー・ホリデイの信奉者の一人で、詩を語るように歌い、より深く感情や情景を表現する技法にその影響を見ることができ、ホリデイの後継者との評価も宜なるかな、である。

 

高声域で音の割れるような歌声は、初めはやや耳障りに聞こえるかもしれないが、その実力は折り紙付き。

 

ここでは、上に挙げたアビーの代表作から一曲お聴き頂こう。

 

ポーギー(Porgy)

 

 

 


最後はやはり、既に何度も名前を挙げたビリー・ホリデイ(Billie Holiday、本名:Eleanora Fagan、1915年4月7日-1959年7月17日)をご紹介しないわけにはいくまい。

 

Billie Holiday

 

ジャズには、他の芸術分野以上に「破滅型」のアーティストが多いが、ホリデイも不幸な境遇の下に生を受けた後、幼少時より荒んだ生活を送り、やがては酒・煙草そして麻薬に溺れ、蝕まれて、わずか44年で生涯を閉じた。

 

それにもかかわらず、同時代の、さらには後続するアーティストに計り知れぬ影響を与えたという事実が、その音楽的存在感を示していると言えよう。

 

まだ禁酒法下のニューヨークにおいて、10代の前半からナイトクラブに出演するようになったエレオノーラは、15歳の時に小さな音楽的契約を手にしたが、ビリー・ホリデイという芸名はこの時に採ったものである。

 

その由来は、昔、男の子のようだったため父親に「ビル」と呼ばれたという幼い時の記憶が頭に浮かび、これに父姓であるホリデイを結びつけたものとされている。

 

ビリーはクラブ歌手として経験を積むと共に、当時フレッチャー・ヘンダーソン(Fletcher Henderson)楽団で活躍していたレスター・ヤング(Lester Young, ts)、さらにはデューク・エリントン(Duke Elington, p)とも出会い、音楽的力量をさらに培った。

 

特にレスターとは気が合い、レスターはビリーのことを「レディ・デイ」と呼び、一方、ビリーがレスターを、「サックス奏者の第一人者」という敬意を込めて「プレス、プレジ=プレジデント)と呼んだことは、「ジャズ・テナーサックス(2)」でご紹介した通りである。

 

jazz-cafe.hatenablog.com

 

そのエリントンと共演した1935年、ビリーは人気の面で絶頂期を迎えるが、音楽的に一層重要なのは、1939年、ルイス・アレンという若い高校教師の手になる、アメリカ南部に根強く残っていた人種差別を赤裸々に描き、指弾する「奇妙な果実(Strange Fruit)」を歌ったことで、これを契機として、1941年の「暗い日曜日(Gloomy Sunday)」のレコーディングなど、人間の情念の、より深い表現の探求へと向かったのである。

 

お聴き頂くべきは、その「奇妙な果実」――と考えたが、「ジャズ」としてご紹介するのはいくつかの意味で躊躇われて、次の曲に変えた。

 

しかしながら、ビリーの特質はこのパフォーマンスからも十分窺われると思う。

 

霧深き日(A Foggy Day)

 

 

女性ヴォーカル(3)―カーメン・マクレエ、アニタ・オデイ

今回は女性ジャズ・ヴォーカルに戻り、二人をご紹介する。

 


先に「女性ジャズ・ヴォーカル(2)」において、エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)、サラ・ヴォーン(Sarah Vaughan)、ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)を、「三大ジャズ女性ヴォーカル」とご紹介したが、ビリー・ホリデイの代わりにカーメン・マクレエ(Carmen McRae、1922年4月8日-1994年11月10日)を挙げる流儀(?)もある。

 

Carmen McRae

 

これは、決してホリデイの評価が他の二人に比して低いためではなく、むしろその別格的存在感から、敢えて一絡げにするのを遠慮してのことであるが、ともあれその代わりとして名前の上げられるマクレエは、これらのビッグネームと肩を並べるアーティストであることは間違いなく、特にゆったりした調子の曲であるバラード(ballad)の上手さは人後に落ちない。

 

マクレエはニューヨークのハーレムに生まれ育ったが、10代の頃、当時同じ地区に住んでいた5歳年上のホリデイと友人を通じて知り合い、奇しくも二人の誕生日がそれぞれ4月8日と7日と続いていたため、例年誕生パーティを共催していたという。

 

そんなマクレエはホリデイを深く敬愛して音楽的にも多大な影響を受けたが、初めピアニストとしての修練を積んだマクレエもまた、ホリデイが新曲を受け取った際、譜面を読むのが得意でなかった彼女のためにそれを演奏や歌唱で具現する形で力を貸したのである。

 

プロとしての第一歩は、1944年にベニー・カーター(Benny Carter)楽団のピアニストとして踏み出し、続いてカウント・ベイシー(Count Basie)楽団のピアニスト兼シンガーとして歌手活動も始めたが、1946年にドラマーのケニー・クラーク(Kenny Clarke)と結婚(しかし後に離婚)して一線を退いたこともあり、シンガーとしての初録音は1953年になって漸く実現した。

 

マクレエの歌唱は、一聴しただけでは、いわゆる「ジャズっぽさ」に乏しい印象を受けるが、要所々々に鏤められたエッセンスに気付くことができれば思わずはッとさせられるはずだ。

 

そのジャズの精髄をマクレエが如何に大切にしていたかは、徒に自己の活動領域を広げることなく斯界に留ったという事実にも現れているのではなかろうか。

 

ブルー・ムーン(Blue Moon)

 

 

 


続いて取り上げるのは、アニタ・オデイ(Anita O'Day、1919年10月18日-2006年11月23日)。

 

Anita O'Day

 

その歌唱を一度耳にすれば瞭然なように、アニタの特徴はハスキーな声と、独特な歌い方にある。

 

しかし、これは天の賜物ではない。

 

子どもの時に受けた扁桃線手術にミスがあり、同じ高さの音を長く引き延ばすロングトーンや、音を揺らすビブラートの発声を断たれた彼女は、敢えて音を短く寸断して歌うスタイルを自らの生命線として生み出し、それがユニークな代名詞となったのである。

 

これと双璧をなすアニタの魅力は、俗にいう乗りの良さだ。

 

しかしそれはリズム・セクションの敷いたレールに単純に従うのではなく、時にそこから外れ、聴く者を一瞬冷やりとさせたあと、何事もなかったかの如く正規のポジションへ復帰する類のもので、ジャズ、延いては音楽全般における「間(ま)」の妙味を多分に秘めている。

 

1933年、シカゴのクラブシンガーとしてキャリアをスタートしたアニタは、間もなくその独特なハスキーボイスによるスウィンギーな歌唱で注目されるようになり、1941年にはジーン・クルーパ(Gene Krupa)楽団、さらに1944年にはスタン・ケントン(Stan Kenton)楽団の専属歌手となり、ヒット作にも恵まれたが、1年を経ずにそこを去る。

 

次いで1950年代に入ると、名プロデューサー、ノーマン・グランツ(Norman Granz)の協力を得て、クレフ、ノーグラン、ヴァーヴ等のレーベルと契約し、数多のアルバムをリリースした。

 

特に1956年から64年にかけてのヴァーヴ時代に生み出された作品群は、彼女の傑作として高く評価されている。

 

その時代の一枚、アニタの最高傑作とも言われる「アニタ・シングズ・ザ・モスト(Anita Sings The Most)」から一曲をお聴き頂いて本稿を終えよう。

 

ウィル・ビー・トゥゲザー・アゲイン(We'll Be Together Again)