ジャズ on the net|JAZZの名曲・名演を動画で試聴

Jazzの歴史から代表的アーティスト、名演奏、スタンダードナンバー、おすすめの名盤まで―YouTubeの動画を視聴しながら、ジャズを愉しむためのツボをご紹介します。

ピアノ(3)―セロニアス・モンク

ここでジャズ・ピアニストへ戻り、この分野で忘れてはならない――実際、その演奏を一聴したら決して忘れないであろう、二人の巨人を続けて取り上げたい。

 


その一人は、セロニアス・モンク(Thelonious Sphere Monk、1917年10月10日-1982年2月17日)である。

 

Thelonious Monk

 

6歳でピアノを始めたモンクは、伝道者に同行して全米各地の教会でオルガンを弾いた後、1940年代初め、ビ・バップ発祥の地として知られるジャズ・クラブ「ミントンズ・プレイハウス」に常雇いのピアニストとして採用され、ジャズ界でのキャリアを歩みだした。

 

当時ミントンズには、テナー・サックスの雄コールマン・ホーキンス(Coleman Hawkins)に加え、チャーリー・パーカー(Charlie Parker)とともにビ・バップの生みの親となったトランペッター、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)がおり、モンクは毎夜彼らのバックを務めながら自らの音楽をも磨いた。

 

このことから、モンクをビ・バップを基盤とするアーティストとして位置づける向きもあり、実際、「ジャズ・ピアノ(2)」でご紹介したバド・パウエル(Bud Powell)に対し、同ムーブメントへ繋がる音楽理論を教示してもいるのだが、モンクの演奏は、スピード感に溢れ時に"忙し気"でさえあるビ・バップとは全く趣を異にする、独特な、唯一無二の「間」を具えた、"たどたどしい"とも言える至極ユニークなものなのである。

 

jazz-cafe.hatenablog.com

 

これは、千言を弄するより、実際にお聴き頂いた方が良いと思うので、ここで動画を一つご紹介する。

 

煙が目にしみる(Smoke Gets In Your Eyes)

 

 

 


この独特な味わいもあって、モンクのプレイはなかなか音楽関係者および一般聴衆の耳を捉えることはできず、レコーディングの機会にも恵まれなかった。

 

1947年には、ブルーノート・レーベルのオーナー兼プロデューサー、アルフレッド・ライオンに見出され、それまでに書き溜めた膨大なオリジナル曲の一部が日の目を見たものの、広く人気を博すことはできず、その後も長く他のミュージシャンのサポートを続けることとなる。

 

 

そんなモンクの境遇が一転したのは1950年代半ば、ジャズ評論家にしてリヴァーサイド・レーベルのプロデューサーをも務める、オリン・キープニュースと出会いだった。

 

キープニュースは、同レーベルにおいてモンクのパフォーマンスを次々と録音し、プロモーションとともにリリース、これが奏功してモンクは漸く脚光を浴びることとなったのである。

 

しかし、その評価は、一般聴衆より、同じミュージシャンを初めとする所謂「音楽通」によるところが大きいことは間違いない。

 


最後に今一つ特記しておきたいのは、モンクの、たどたどしいとも言える独特の「間」は、決して即興的に生み出されたものではなく、綿密な計算と度重なる試行に裏打ちされて生まれたものだということだ。

 

同じアプローチにより独自の音楽空間を創造するマイルス・デイヴィス(Miles Davis)との、1954年に行われたレコーディングにおいて、互いに相手のソロの際には演奏しない、所謂「喧嘩セッション」が生じたことは、その例証の一つと見做せるのではなかろうか。

 

一方、卓越したインプロヴァイザー(即興演奏家)であるソニー・ロリンズ(Sonny Rollins)が、モンクの音宇宙を自由自在に飛翔できるのもまた、当然のような気がする。

 

また、改めて述べるまでもないかと思うが、モンクは極めて流麗に演奏する能力をも有していたことを、付け加えておく。

 

 

男性ヴォーカル(2)―ジョニー・ハートマン、チェット・ベイカー

男性ジャズ・ヴォーカル(1)としてルイ・アームストロング(Louis Armstrong)をご紹介してからだいぶ時が経ってしまったが、今回その(2)として二人のシンガーを取り上げる。

 

jazz-cafe.hatenablog.com

 


先ず一人目はジョニー・ハートマン(Johnny Hartman、1923年7月3日-1983年9月15日)。

 

Johnny Hartman

 

1947年、あるコンテストで優勝し、その褒賞としてアール・ハインズ(Earl Hines)と一週間共演したことで注目を浴び、ジャズ・シンガーとしてのキャリアをスタート。

 

その後も、エロール・ガーナー(Erroll Garner)、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)といった優れたアーティストらの元で研鑽を積み、一流のジャズ・クラブへの出演をはじめ、ヨーロッパ各地の巡業も行った。

 

1963年には、アート・ブレイキー(Art Blakey)率いるジャズ・メッセンジャーズ(The Jazz Messengers)の一員として来日して日本でも名が知られるようになり、さらに同年、ジョン・コルトレーン(John Coltrane)に協力を請われて、共にバラード集「John Coltrane And Johnny Hartman」を世に送り出したことで、確固とした名声を確立した。

 

後年にはポピュラー界への進出も企てたが、彼の本領はやはりジャズにあると言うのが妥当と思う。

 

では、ハートマン、同時にコルトレーンの持ち味でもある、甘く温かい音色をお聴き頂こう。

 

デディケイティッド・トゥ・ユー(Dedicated to You)

 

 

 

 

もう一人、ウエストコースト・ジャズからチェット・ベイカー(Chet Baker、本名:Chesney Henry Baker Jr.、1929年12月23日-1988年5月13日)を。

 

Chet Baker

 

トランぺッターとしての技量に加え、「ジャズ界のジェームス・ディーン」と称された端正な容姿、中性的な歌声により、さらに白人であるということもあって、1950年代半ばには広く大衆的人気を博した。

 

年齢的に近く、また同じトランぺッターゆえに、マイルス・デイヴィス(Miles Davis)と比較されることが多いが、これはマイルスの対抗馬としてチェットを売り出そうという業界の思惑・戦略に拠るところが大きく、チェット自身はマイルスを深く信奉していたという。

 

1954年には、ニューヨークのジャズ・クラブ「バードランド(Birdland)」において、第1部はディジー・ガレスピー、第2部がマイルス&チェットという錚々たる顔ぶれの競演を果たし、このジャズ史の一コマは、映画「ブルーに生まれついて(Born To Be Blue)」にも描かれている。

 

しかし、チェットの全盛期はこの頃までで、50年代の後半からヘロインに溺れ、その名声を自ら失っていったことは、彼にとっても、ジャズ界にとっても惜しまれる。

 

その後しばらく経った1973年には、ディジー・ガレスピーの助けを得て音楽界への復帰を成し遂げたものの、往年の輝きを取り戻すことはできなかった。

 

ご紹介する動画は、マイルスにも有名なパフォーマンスがある次曲。

 

マイ・ファニー・ヴァレンタイン(My Funny Valentine)

 

ここに漂う、気怠い浮遊感とでも言うべき情調は、ジョアン・ジルベルト(Joao Gilberto)に少なからぬインスピレーションを与え、ボサノヴァの生まれ出づる一因になったともいわれるものだ。