マイ・ロマンス(My Romance)
ジャズ・アルトサックス・プレイヤーが二回続いた後の今回は、スタンダード・ナンバーへ戻って「マイ・ロマンス(My Romance)」をご紹介したい。
この曲は、1935年に初演されたミュージカル「ビリー・ローズのジャンボ」の主題歌として、詞はリチャード・ロジャース(Richard Rodgers)、曲はロレンツ・ハート(Lorenz Hart)という黄金のヒットメーカーによって生み出された。
本家本元のミュージカルにおいては、グローリア・グラフトンとドナルド・ノヴィスが披露し、1962年公開の映画版では、ドリス・デイがこれを歌っている。
その歌詞を拙訳を付して引用させて頂くと――
My romance doesn't have to have a moon in the sky
わたしの愛の物語には月なんかいらない
My romance doesn't need a blue lagoon standing by
青い珊瑚礁がすぐそばになくてもいい
No month of may, no twinkling stars
緑輝く5月も、煌めく星もいらない
No hide away, no softly guitars
人目を忍ぶ場所も、優しいギターの音も
My romance doesn't need a castle rising in spain
聳え立つスペインのお城なんかいらない
Nor a dance to a constantly surprising refrain
めくるめく旋律に合わせて踊らなくてもいい
Wide awake I can make my most fantastic dreams come true
目が醒めていたって、わたしはどんな素敵な夢も見られるから
My romance doesn't need a thing but you
わたしの愛の物語には、あなた以外は何もいらない
My romance doesn't need a thing but you
必要なのは、そう、ただあなただけ
「あなたさえいてくれたら、ありふれた愛の小道具なんか必要ない――」という、皮肉な見方をすればそれ自体陳腐な内容ではあるけれども、そこは何と言っても名手の手になる作品、実に見事に仕上げられている。
この「マイ・ロマンス」は、ミュージカル、さらには映画を通じて多くの人々の耳を捉えたこともあり、ポピュラーからジャズに亘り数多のカヴァーがなされた。
その代表的パフォーマンスとしては、先に「ピアノ(4)―ビル・エヴァンス」においてご紹介したものが有名だが、他にも各アーティストがそれぞれの個性を発揮して、この曲にさまざまな彩を与えている。
上のページで挙げたものとともに、次の二つの動画で、それをご堪能頂きたい。
https://www.youtube.com/watch?v=Rd-dlunIGGA
https://www.youtube.com/watch?v=7Q280CTe3K4
アルトサックス(2)―ジャッキー・マクリーン、キャノンボール・アダレイ
アルトサックス・プレイヤーの二人目としては、ポスト・チャーリー・パーカーとも呼ばれたジャッキー・マクリーン(Jackie McLean、1931年5月17日-2006年3月31日)をご紹介したい。
「ジャズ・テナーサックス(3)」においても述べた通り、マクリーンはハイスクールにいた時分、ソニー・ロリンズ(Sonny Rollons, ts)、ケニー・ドリュー(Kenny Drew, p)と共に演奏していた。
そして1951年、19歳の時にマイルス・デイヴィス(Miles Davis, tp)に見出され、アルバム「Dig(ディグ)」のレコーディングに参加してデビューを果たす。
その後、チャールズ・ミンガス(Charles Mingus, b)の「直立猿人(Pithecanthropus Erectus)」、ソニー・クラーク(Sonny Clark, p)の「クール・ストラッティン(Cool Struttin')」、マル・ウォルドロン(Mal Waldron, p)の「レフト・アローン(Left Alone)」といった印象的な作品でもサイドを努め、着実にキャリアを重ねいった。
マクリーンの特徴は、さまざまなジャズのスタイルに積極的に取り組み、そのいずれをも自家薬籠中のものにした器用さにあると言えよう。
ビバップを皮切りに、より力強いハード・バップ、さらにマイルスが確立したクール・ジャズなどを経て、後にはフリー・ジャズにも傾倒したが、特にハード・バッパーとして活躍した時代が高く評価されている。
1963年、まだ17歳だったトニー・ウィリアムス(Tony Williams)の才能を見出し、また、1968年には音楽活動を休止して教職に就き、黒人文化の継承に力を発揮した点にも、マクリーンの見識の広さ・深さを見ることができるのではなかろうか。
そんなマクリーンの代表作の一つ「4, 5 and 6」に収められた「センチメンタル・ジャーニー(Sentimental Journey)」で、彼の才を確かめて頂きたい。
https://www.youtube.com/watch?v=8n2C9ybcjEQ
もう一人、キャノンボール・アダレイ(Julian Edwin "Cannonball" Adderley、1928年9月15日-1975年8月8日)を。
キャノンボール(砲丸)とはもちろんあだ名であり、彼の巨大な体躯と迫力満点の演奏からきているのだろうが、上記の通り本名はジュリアン・エドウィン・アダレイである。
しかし、その風体および演奏の特徴からすると、ニックネームの方が遥かに当を得ていると言うべきだろう。
アダレイは1955年の夏、生まれ故郷のフロリダからジャズの本場ニューヨークへ姿を現したが、時あたかもアルトの神チャーリー・パーカーが亡くなった直後であり、誰もが彼に代わるアルト奏者を待望していた。
そんな折、ジャッキー・マクリーンとアダレイがあるセッションに飛び入り参加するという出来事があり、その際、音量とテクニックの双方においてアダレイがマクリーンを圧倒してしまったため、以降、「ポスト・チャーリー・パーカー」の称号はアダレイに引き継がれたという。
アダレイの豪放磊落なプレイスタイルから生み出される広く明るい音色は、ミュージシャンを含めそんな人々の心をたちまち捉え、1957年には、自らのクインテットをセクステットへ拡張しようと考えていたマイルス・デイヴィスに白羽の矢を立てられて、「マイルストーンズ(1958年)」、さらにはジャズ史に燦然と輝く名盤「カインド・オブ・ブルー(1959年)」の誕生に与したのである。
マイルスがアダレイをどれほど尊重していたかは、実質的には自分のリーダー作である「サムシン・エルス(Somethin' Else)」をアダレイの名義でリリースしたことからも窺うことができよう。
そのアルバムの冒頭に置かれた「枯葉(Autumn Leaves)」は、数あるこの曲のパフォーマンスの中でも特筆に値する名演と言って異論は出まい。
ただ、ここでは、ビル・エヴァンスとの共演による、これも名高い「ワルツ・フォー・デビィ」の動画を視聴頂こうと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=dJqkN1w0fFg