ジャズ on the net|JAZZの名曲・名演を動画で試聴

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トランペット(3)―リー・モーガン、フレディ・ハバード

トランペット(1)」および「トランペット(2)」でご紹介したように、ある意味ディジー・ガレスピーを源流として、時代を画するトランペッターが二人現れた。

 

彗星の如く姿を見せ、瞬く間にこの世を去った、ブラウニーことクリフォード・ブラウン(Clifford Brown)と、後に帝王と呼ばれてジャズ界に長く君臨したマイルス・デイヴィス(Miles Davis)である。

 

そしてこの二人の後を追うかの如く、それぞれまた眩い輝きを放つ新星が誕生する。

 


リー・モーガン(Edward Lee Morgan、1938年7月10日-1972年2月19日)は、ブラウンの直系後継者とも言うべきトランペッターであろう。

 

Lee Morgan

 

フィラデルフィアに生まれ、幼少時からその才能を謳われていたモーガンも、本格的に歩み出したのはやはりガレスピーの元からであり、その当初の1956年、18歳で早くも初のリーダー・アルバム「リー・モーガン・インディード!(Lee Morgan Indeed!)」を吹き込み、翌年ブルー・ノートからリリースした。

 

マイルスはその演奏を聴いて、「音が多すぎる、」と苦言を呈したというが、実際、そこに展開される超絶技巧には辟易する向きも少なくないだろう。

 

だが、無論モーガンはテクニックだけのトランペッターではなく、1957年に同じくブルー・ノートから出された「リー・モーガン Vol.3(Lee Morgan Vol.3)」においては、前年に自動車事故で若くして亡くなったブラウンを偲んでベニー・ゴルソン(Benny Golson, ts)が書いた「クリフォードの想い出(I Remenber Clifford)」を、実に情感豊かに歌い上げている。

 

品行方正だったブランウンに対し、やんちゃな不良少年といったモーガン、その対照にも関わらず、両者の生み出す艶やかな音色には共通した趣きがある。

 

その後、アート・ブレイキー(Art Blakey, ds)やハンク・モブレー(Hank Mobley, ts)らとの共演を重ねる一方、ジョン・コルトレーン(John Coltrane, ts)の初期の名作「ブルー・トレイン(Blue Train)」にも参加している。

 

数多のレコ―ディンク機会に恵まれてハード・バップの重要な位置を占めるに至ったモーガンは、さらに1963年に録音された「ザ・サイドワインダー(The Sidewinder)」では、8ビートのリズムを採用して広く世間にアピールすることにも成功した。

 

しかし、このような華々しい活躍の最中、ニューヨークのジャズ・クラブ「スラッグス」でのライブの際、愛憎のもつれから内縁の妻に拳銃で撃たれ、命を落とす。

 

時に1972年2月18日、享年わずか33と、早世という点でもブラウンを踏襲することとなったのである。

 

ヘビー・ディッパー(Heavy Dipper)

 

 

 


奇しくもモーガンが生まれたのと同じ年、もう一人、将来の名トランペッターがこの世に生を受けている。

 

フレディ・ハバード(Freddie Hubbard、1938年4月7日-2008年12月29日)である。

 

Freddie Hubbard

 

生まれ故郷のインディアナポリスにおいて、後にギタリストとして名を馳せることとなるウェス・モンゴメリーを初めとするアーティストとの交友を通じ、元々具えていた音楽的感性・技術を育んだハバードは、モーガンよりわずかに遅く、1958年、ジャズの本場ニューヨークへ出て本格的に斯界へ踏み出した。

 

ここでさらにオーネット・コールマン(Ornette Coleman, as)、エリック・ドルフィー(Eric Dolphy, as, fl)、J.J.ジョンソン(J.J.Johnson, tb)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(Pillie Joe Jones, ds)、クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones, tp, p)、さらにソニー・ロリンズ(Sonny Rollins, ts)、ハンク・モブレー(Hank Mobley, ts)など、錚々たるアーティストとセッションと出会い、1961年から63年にかけては、モーガンの後を受ける形でアート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズ(Jazz Messengers)に参加。

 

初リーダー作は1960年の「オープン・セサミ(Open Sesame)」と、こちらもモーガンに比べると少し遅れたものの、以降自らのアルバムは勿論、サイドマンとしても数多の録音に参加して着実に地歩を固めていった。

 

そして1970年代には、ハービー・ハンコック(Herbie Hancock, p)をリーダーに冠するV.S.O.P.クインテットのメンバーとして、先立つ各年代のスタイルを統合したフリー・バップを世に問い、従来ジャズに馴染みのなかった聴衆にまで受け入れられることとなったのである。

 

しかしこれについては、商業主義的、大衆迎合といった批判のあることも付記しておく。

 

ハバードもまた際立った技術の持ち主として知られ、マイルスは彼を「あいつにあるのはテクニックだけ、」と評したと伝えられるが、これもハバードのことを高く買っていたからに違いない。

 

実際、技術に裏打ちされたハバードのリリカルなブロウは、マイルスをして、自分を脅かしかねない可能性を感じさせたようにも思われる。

 

ハバードは、健康上の理由で音楽界から身を引いた時期もあったものの、1992年には復帰を果たし、天寿を全う――とは言い過ぎになるが、2008年末まで生を永らえた。

 

オープン・セサミ(Open Sesame)