テナーサックス(5)―ジョニー・グリフィン
ジャズのメッカと言えば、その発祥の地ニューオーリンズ、ニューヨークといった地名がまず思い浮かべられるだろうが、禁酒法時代にアル・カポネの跋扈したシカゴもまた忘れてはならない都市で、そこから数多のアーティストが全米、さらには全世界へと羽ばたいた。
その一人が、父はコルネット奏者、母は歌手という音楽一家に生まれたジョニー・グリフィン(Johnny Griffin、1928年4月24日-2008年7月25日)である。
グリフィンはテナーサックス奏者として知られるが、初めはクラリネット、オーボエ、アルトサックスといった楽器を吹いていた。
高校を終えるとライオネル・ハンプトン(Lionel Hampton)楽団へ入団し、そのハンプトンの勧めによりテナーサックスへと転身、その後軍隊で二年間を過ごしてシカゴに戻った時には、当地におけるテナーサックスの第一人者と称される存在となっていたのである。
そして1956年、その自信を引っ提げてニューヨークへ進出。
そこでは当時、ほぼ同年台のジョン・コルトレーン(John Coltrane)、ソニー・ロリンズ(Sonny Rollins)がジャズ・テナーの名声を二分していたが、そこへグリフィンが割って入ると、二人を押し除けてここでも筆頭の位置を獲得したと言われている。
グリフィンの演奏の特徴は、力強く大らかない音色で繰り広げられる、スピード感に満ち、かつ抒情にも富んだ超絶的な技巧にあると言ってよいだろう。
それが170cmほどという比較的小柄な体躯から迸り出たところから、「リトル・ジャイアント」と呼ばれた。
そのパフォーマンスは、ブルーノート(Blue Note)からリリースされた初リーダー作「イントロデューシング・ジョニー・グリフィン(Introducing Johnny Griffin), 1956年」に遺憾なく聴くことができるが、続く「ア・ブローイング・セッション(A Blowing Session), 1957」でのコルトレーン、モブレーとの競演を併せ聴くことで、より一層明確になると思う。
ブルーノートではレコーディングエンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーと軋轢を生じ、三枚のアルバムをリリースしたのみでリバーサイド(Riverside)へ移り、さらに後にはプレスティッジ(Prestige)でも吹き込んでいる。
このようにジャズ三大レーベルからアルバムを出したのは、数多のアーティストの中でも他に例を見ないのではなかろうか。
1963年には活動の場をヨーロッパへと移したが、アメリカのアーティストがかの地で公演するに際してはグリフィンの助力を仰ぐことが多かったという。
その後も息の長い活動を続けて豊麗多彩なアルバムを生み出し、2008年、心臓発作によりこの世を去った。
日本ではコルトレーンとロリンズの名があまりに大きく、その陰に隠れてあまり話題にならないのが惜しいアーティストの一人である。
https://www.youtube.com/watch?v=M-NCvs9L0nE
https://www.youtube.com/watch?v=_9Qaxx6vxyo